memo


2019.05.29 三好達治と鷗①

合唱作品「鴎」(詩:三好達治/曲:木下牧子)をより深く考えるための参考用として、本稿および次稿に分けて三好達治自身、また彼が「鴎」という言葉へ託した想いに関する箇所を並示します。気になる引用がある場合は原著にあたってください。

『梶井基次郎、三好達治、堀辰雄集』(1954年)「三好達治君への手紙」(桑原武夫)
「三好の人物評にはよく『狷介不覊』という漢語が用いられる。彼はかるがるしく自説をまげず、容易に妥協せず、詩壇においてはむしろ孤立しているように見受けられるところをさすつもりであろう。…もちろん誰も彼を常識家とはいうまい。しかし、彼にはたとえ常識家といわれても、それを詩人の誇りを傷けるものとはしないような点がある。彼の孤独を私も否定しない。ただ彼の孤独は、信州や越前の田舎に数年を暮らし、村の人々から先生としたわれうるような境地での孤独なのである。狷介は適切な評語ではない。」

『詩への接近 詩と詩人への芸術論的考察』(1980, 杉山平一)
「三好達治は、自身の詩そのものを、〈私のうたは砂の砦だ…
もとより崩れ易い砦だ〉と規定するがもとより、この崩落性は、
弱さではない。強い自負が歌わせている。」

『駱駝の瘤にまたがって -三好達治伝-』(1987, 石原八束)
「砂の砦」について 
「私のうたは砂の砦だと自分のうたを否定したところから、新たなうたの再出発をはたそうとするのである。」
「〈私のうたは砂の砦だ〉と云いながら、しかし、〈援軍無援〉と云いきる自信もある。全部の否定ではない。」

「三好達治戦争詩の考察」(2016,徳永光展)
「三好達治は,①『捷報いたる』(スタイル社 1942年7月), ②『寒柝』(大阪創元社 1943年12月),③『干戈永言』(青 磁社 1945年6月)に総数90を超える戦争詩を残している」
詩が情報ツールとして機能を持っていた、という指摘
 ➡ 「当時としては、時流に乗るということ=戦争を鼓舞する詩を書くということであり、さもなくが言論界から身を引くという選択しかなかった」
1915年9月大阪陸軍地方幼年学校入学
1918年7月東京陸軍中央幼年学校本科入学
1920年から半年間挑戦・会寧の工兵第19大隊に赴任
 帰国後、陸軍士官学校に入学し翌年退学
➡ 「…10代後半から20過ぎまでの6年余りを軍人として教育された事実は、三好の思想を語るうえで無視はできまい。」
『梶井基次郎、三好達治、堀辰雄集』(1954年)「三好達治君への手紙」(桑原武夫)
「戦争になつて君も戦争詩を作つたが、君はやはり自然詩人であつた。…日本の戦争詩の特色として、泥にまじる血、肉片、断末魔のうめき等の文字がないのは、このためである。君のその頃のものに和歌、俳句が多く、すべて文語詩であることも、このことと無関係ではないと思ふ。(文語でも現実は歌へる。たゞ文語はその現実から今のいぶきを消し去る作用をもつてゐる。)」