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2019.11.18

日本の合唱作品に登場する特殊な記号たち

合唱は従来、いくつかのパートがそれぞれの音程やリズム、言葉を担い、それらが歌い手の身体を通して同時に再生されることで空間にハーモニーが生まれ、時には言葉の掛け合いが生まれるような音楽形態、と大変簡素ながらもまとめることができるかもしれません。それが、時代の流れの中で、創作者独自の哲学によってもたらされた様々な特殊唱法/奏法を取り込み、新たな体験へと拡張していることは、作曲家たちの生み出したその豊かな”記号たち”が示していると思われます。
そこで、以下では、日本の合唱作品における特殊唱法/奏法の一端を紹介することとします。これらの記号からは、合唱の含有するどの要素に対して作曲家が拡張の可能性を感じていたのか(例えば、拍子、声の使い方など)が読み取れるとともに、なぜそれらを開発し、採用しなければならなかったのか、という問いを与えてくれます。
「知らない記号=怖い=演奏しない」という思考にならず、どうか、日本が築いてきた合唱という体験の多様さと向き合うヒントにしていただけると幸いです。
 
<拍子に関するもの>
1.『ひみつ』「ひみつ」(谷川俊太郎/鈴木輝昭)
小節ごとの拍子の変化を、小節の左上に、数字で示しています。その基準となる音符は、ここでは四分音符です。

2.『のら犬ドジ』「ないてる……」(蓬莱泰三/三善晃)
小節ごとの拍子の変化を、小節の左上に、分数の形で示しています。

3.『のら犬ドジ』「ないてる……」(蓬莱泰三/三善晃)
小節ごとの拍子の変化が各小節の左上に分数の形で示されていますが、そこで用いられているのは「付点8分音符分の1」「付点8分音符分の1プラス8分音符」「8分音符×2」など、多様です。

 
<時間に関するもの>
4.『狐のうた』「醜聞」(会田綱雄/三善晃)
拍子の代わりに、この作品では3秒ごとに基準となる印が示されており、それを基準に音楽を進めていくことが記されています。指揮者がストップウォッチを持ち込んで演奏することがあります。

5.『狐のうた』「醜聞」(会田綱雄/三善晃)
全休符の代わりに、ひし形に斜め線の入った記号が使われています。単純な休符ではなく、描かれている情景や音楽の流れにあった「間」をとることが意図されていると考えられます。

 
<音の伸ばしに関するもの>
6.『のら犬ドジ』「ないてる……」(蓬莱泰三/三善晃)
倍全音符に似た記号が書かれてありますが、これは次の指示があるまで伸ばし続けることが意図されている、と考えられます。

7.『梟月図』「何が泣いただろうか」(宗左近/鈴木輝昭)
ここでは「B.O.」「B.F.」という、2種類のハミングが示されています。「B.O.」から「B.F.」、またその逆という組み合わせは音量の増減を意図して使用される場合があります。例えば、「B.F.」(口を閉じたハミング)から「B.O.」(口を開いたハミング)へと連続して歌唱すると、同じハミングでも、閉じていた口を開けることになるため音量も自然に大きくなります。この楽譜では、「B.F.」から「B.O.」になることで音量が自然に増すことが強弱記号でも示されています。(piu P から Pへと指示が変化している。)
ハミングについては、この他、様々な表記がなされることがあり、「B.F.」と同義なのは「Hum.」「m」、「B.O.」と同義なのは「ん」「n」等があります。

8.『Voice』「Since I was born…」(木島始/信長貴富)
黒塗りの全音符にフェルマータが付記されており、そこからナレーションのセリフへ矢印が示されています。これは、ナレーションが発音し終えるまで音を伸ばし続ける、という意味であり、その後は、ナレーションが終わるとそれに反応して次のフレーズへとつながる、という指示になっています。

 
<声の使い方、表現に関するもの>
9.『合唱のためのコンポジション14番』「KANJO」(間宮芳生)
黒く塗りつぶされた部分は、可能な限りその範囲の音を埋め、クラスターを作るよう意図されいています。写真の左側のクラスターの場合は、例えば、「レ、レ♯、ミ、ファ、ファ♯、ソ、ソ♯、ラ、ラ♯、シ、ド」をすべて発声することになります。右側のクラスターでは、最初は1音から、次第に音が重なり、ソの音までクラスターが広がるよう指示されています。
このようなクラスターの書法は『原爆小景』「日ノ暮レチカク」(原民喜/林光)でも見られます。

10.『合唱のためのコンポジション14番』「SHINGON」(間宮芳生)
ここでは、声楽的な歌唱よりも話すような声の使い方で、例えばテノール1であれば、およそシの音の高さで「n」を発音し、4拍かけて低いラの音辺りまでグリッサンドで下降し、その後「no」「mo」「no」「mo」を繰り返す中で次第にささやき声のように音量を落としていくよう、指示がなされています。

11.『のら犬ドジ』「ドジじゃないぞ」(蓬莱泰三/三善晃)…
2019.10.07

パレストリーナへの視点

現在もなお愛されているイタリア・ルネサンス後期の音楽家、パレストリーナ(正式な名を)は「教会音楽の父」と呼ばれることもあり、西洋音楽の歴史をたどっていく中で、1つのポイントとなる人物です。
ここでは、以下、パレストリーナに関して記されたいくつかの文献から、彼をめぐるいくつかの視点と、彼の代表作の1つである「Sicut cervus desiderat ad fontes」の演奏に関する記述も例示します。
 
 「パレストリーナは、ローマ近郊の町に生まれ、一生涯にわたってほとんどローマに住み、そこで活動した。彼の関心は、事実上、専ら宗教音楽にのみ集中していた。彼は、100曲以上ものミサ曲と数百曲ものモテットを書いたが、世俗曲はほんの数曲しか作曲しなかったのである。彼は、生前にも高い評価を得ていたが、死後には、いわば、彼の時代の完璧な大作曲家として大天才の位置に列せられ、更に大きな評価を受けるようになった。彼の諸作品は、完璧な手本とされ、今日に至るまでの声楽的対位法の教育の基本となった。他に比肩するもののないほどのこうした称賛を彼が得たのは、或る程度まで、歴史的偶然の結果だったとも言える。つまり、彼は、同時代の他のとても優れた作曲家達に比べて、それほど図抜けていたわけではなかった。だが、そうとはいえ、彼の音楽は、疑いなく、典礼式用の音楽に必要とされる諸条件を見事に満たしているし、そして、トレント公会議の精神に―常に文字通りにではないにせよ―順っているのである。」 (p202-204, デイヴィッド・G・ヒューズ『ヨーロッパ音楽の歴史』)  
 「[…]このようなパレストリーナの経歴に加えて、彼の作品のほとんどが宗教音楽であることから、彼は典型的なローマ・カトリック教会の作曲家であると言えるだろう。しかしパレストリーナは、人間的にも音楽的にも、一般に思われているほど世俗的要素を寄せ付けないような作曲家であったのではない。たとえば、世俗曲の旋律をミサ曲の素材として用いて、「ミサ戦士」という作品を書いたり、あるいは「四度のミサ」とか「無名のミサ」という不明瞭な曲名をつけることによって、世俗的素材を使用していることを隠すかのようなこともやっている。」 (p167, 須貝静直「ジョヴァンニ・ピエール・ルイジ・ダ・パレストリーナ」『ルネッサンス・バロック音楽の世界―バッハへ至る道』)  
 「彼[パレストリーナ]とともに音楽は新しい段階に足を踏み入れた。精神が音楽的素材を完全に支配し、個々の音をしっかりと捉えた。音楽は言語を映す鏡となり、言葉を語る存在としての人間を実現する能力を得た。装飾(あるいは構成)と人間表現との綜合が達成された。それによって、パレストリーナとともに音楽史上の新しい時期、すなわち人間の表現としての音楽という時期が始まったのである。」 (p96, T・G・ゲオルギアーデス『音楽と言語』)  
 
〇ルネサンス ― パレストリーナの生きた時代
・ルネサンスという時代
 「音楽史におけるルネサンスは、ギョーム・デュファイ(1400頃―74)、ジル・バンショワ(1400頃―60)、アントワーヌ・ビュノワ(1400頃―92)等、フランドル出身の音楽家たちがブルゴーニュ公国を中心に活躍し、アルス・ノヴァ以来のフランスの伝統的作曲技法を中核として、それにイギリスの充実した和声感とイタリアの流麗な旋律法とを同化することによって新しい国際的なポリフォニー様式をつくりだした十五世紀中頃にはじまり、フィレンツェのカメラータがモノディを創作することによって音楽史上のバロックを切り開いた十六世紀末にいたるまでの約一世紀半ということになる。」 (p73, 永田仁「パレストリーナとルネッサンスの教会音楽」『ルネッサンス・バロック音楽の世界―バッハへ至る道』)  
 「ルネサンスは、詩と音楽の『正しい』関係が真剣に論じられた時代であった。もちろん、ギリシャの芸術を手本として。しかし残念なことに、古代の音楽そのものは残されていなかった。手本にする作品そのものがないのだから、せめて理論的に古代の考え方を学ぶのが先決だった。ルネサンス人の感心なところは、いや無謀な(といった方がいいかもしれない)ところは、ギリシャ音楽と彼ら自身の音楽に、どんなに大きな違いがあるかをさして気にもとめずに、理論的研究にとどまることなく実践にものりだした点であろう。[…]この時期には言葉と音楽の関係も、今日的な見方をすれば、衒学的な迷路にまよいこんでしまったかに見える。本書が扱ってきたのは、まさにこの時期の音楽を中心としているのだ。歌詞には往々にして隠された意味があり、音楽づけは基本的に視覚的である。こうして出来あがった曲は、えらばれた者のエリート意識をくすぐる謎解きの材料となる。
 1500年代も末に近づくと、プロとアマチュアの音楽家たちに、詩人や言語学者をまきこんで、新たな観点からの『正しい言葉と音楽の関係』『正しい音楽のあり方』を追求する動きがやはりフィレンツェではじまった。作曲者でもなく、演奏者でもない、第三者としての『聴き手』の立場が意識されていた点が、新しい運動のポイントの一つであった。」 (p221-222, 岸本宏子『ルネサンスの歌物語』)  
 「私たちは音楽を耳で聴くものと思いこんでいるが、耳に訴える曲づくりが作曲の正統派になったのは、実は1600年をすぎてからのことなのだ。たしかに、耳で聴いて感動を受ける作品はすばらしい。けれど、言葉を理解しなくても万人に感銘を与える作品のほうが、普遍的な価値を持ち、それゆえに優れているといいきれるだろうか。そんなことをいえば、聴き手の言葉の理解力に左右される声楽より、万人に同等に訴えかける器楽の方が優れている、という論議にもなりかねない。」 (p228, 岸本宏子『ルネサンスの歌物語』)  
 
・パレストリーナに至るまでのイタリアの音楽
 「十五世紀のイタリア人が好んで作曲したシンプルな歌曲のたぐいは、いずれもホモフォニックな三声または四声の有節歌曲である。[…]芸術的に高度な形式の詩が歌詞に選ばれるようになって、音楽面でもフロットラからマドリガーレへの決定的な第一歩がはじまった。はじめに設定した二つあるいは三つの旋律線に、詩をなんとかあてはめ押し込んでしまうという、フロットラのやり方は次第に消えていく。それに代わって一行一行の内容にあわせて音楽を新たに織り上げるようになる。すなわち、有節形式は捨てられ、通作形式が採用されるようになったのである。それとともに、歌詞の一語一語、一行一行の内容にふさわしい表現をもとめて、旋律も変化に富んだものとなっていく。もう一つの大きな変化は、ホモフォニックな様式のなかに、フランドル風の模倣的ポリフォニーが浸透していったことである。そしてまたマドリガーレの通作化から、歌詞はなにも定型詩である必要がなくなって、自由形式詩をふくむ多様な詩が用いられるようになる。」…
2019.08.12

『美しい訣れの朝』-阪田寛夫を振り返る

合唱作品『美しい訣れの朝』(阪田寛夫作詩/中田喜直作曲)の詩をより深く考えるための参考用として、阪田寛夫の言葉や谷悦子氏による彼に関する論の一部を、出典を明記の上、次に並示します。
『美しい訣れの朝』は日本を代表する女声合唱の名曲ですが、その解釈についてより深く掘り下げようとした際、中田喜直氏や阪田寛夫氏がこの作品について言及した資料は豊富とは言えません。しかし別の視点から、例えば、阪田寛夫の人生、童謡観、<子ども>に対するイメージなどを見ていくと、少し遠回りではありますが、『美しい訣れの朝』が彼の中から生まれてきたことについて納得ができるかもしれません。
まずは以下を手掛かりに、他にも資料を探すきっかけにしてもらえると幸いです。 『童謡でてこい』(1986,河出書房新社,阪田寛夫)
「私は今から六十年前、大正の終わりに大阪の街で生まれた。町といっても、新しく市域に入れられた南のはずれである。私が子供だった昭和の初め頃から、畑や野原をつぶして家が建ちはじめ、広い道がつき、中学に進学した十年代の初めには、ほぼ空地がなくなって市街地になっていた。父は町工場の経営者で、大正の終りに土地を買って家を建てたキリスト教徒であった。新開地に生まれたキリスト教徒の子供ということが、多分私の耳に入る音楽を規制した。」(「17 きよしこのよる」の項より)
「(…)「椰子の実」の作曲者は私の叔父である。そして私がもっと小さい頃にうたった童謡はこの叔父の作品が圧倒的に多かった。(…)叔父の作ったメロディーは、完全に標準語のアクセントの高低に副って書かれていた。(…)戦後の童謡で、たとえば「ぞうさん」、「サッちゃん」などは、言葉を文字ではなく音として自律的にとらえる配慮から、だいたい標準語アクセントに副って作曲されている。しかし、戦前にはそういう近代的な言語感覚で書かれた童謡は、珍しい。叔父は山田耕筰の忠実な弟子であったから、その珍しくてむずかしい仕事を一所けんめいにやったのである。(…)叔父の童謡で変わっていたのは、その詩がほとんど素人の作品だという点だ。素人どころか、五歳とか三歳の子供の詩なんかに、叔父は一緒けんめいしゃれた曲をつけている。(…)理屈好きの大人の目で見ると支離滅裂の歌詞だが、子どもの頃の私には結構よく通じて、たのしめる歌だった。それは恐らく、叔父の曲が、詩を書いた子の空想力と同じレベルで音の世界を駆けめぐっているからこそ、こんどはそれを歌う子供の空想力をかき立てる力が生じたのだと思う。(…)ところがある日、「椰子の実」を書いて叔父は一躍名を挙げた。(…)子供の空想力をつき動かすあの空に駆け行くような童謡を、それ以降叔父は書かなくなった。(…)「椰子の実」のせいだとは思いたくない。有名になったせいでもないだろう。むしろ、気まぐれな童謡の神さまが、数年間だけ無名時代の叔父の頭の上に、見えない金の環を置いてくれたと言うべきであろう。」(「18 椰子の実」の項より)
「いま小学校の音楽教科書は四、五種類あるだろうが、一年生の教材として「めだかの学校」がたいていの本に載っている。(…)作曲者の中田喜直氏に聞いたところでは、一度曲を作ってから、ある人の勧めもあって、「そっとのぞいてみてごらん」だけを二度繰返すように改めた。それがよかった、ということである。-春の野原に来て、めだかがいそうな皮をみつけた。足音を立てても、めだかは逃げる。だからそっとのぞいてみる。見えない。もう一度乗り出して、声も立てずに目だけを走らせてみる。……あ、いたいた。という時間の経過と心の緊張とが、この曲では音楽において表現されている。喋る代りに音をつけたというだけではなく、音楽でなければ表現できない「時間」及び「緊張と解決」が、せん細な感受性と技術によって、一つの曲の中に封じこめられ送致されている。小学校の新入生でもいきなり歌える単純明快な旋律が氷山の一角だとすれば、水の下にかくれて見えない大切な重心部に当るのは、ピアノの部分である。(…)[中田喜直氏は]東京音楽学校のピアノ科から、陸軍特別操縦見習士官に応募して、パイロットになり、危うく生命永らえて家に帰ったが、アメリカ占領軍のキャバレーでピアノを弾きながら作曲を始めた。ピアノ曲も書いたが、日本には歌曲が少いから、新しい歌曲集を作ろうと志した。その時考えたことの一つは、日本の歌曲はこれまでピアノはいつも伴奏に過ぎず、ピアノが歌と対等に独立して、それぞれが対応して一つの表現をするようなものが少いという点だった。外国の本格的なリードに匹敵する日本の歌曲を作ろうとする姿勢が、そのまま子供の歌にも向けられて、先ずできたのが「めだかの学校」や「かわいいかくれんぼ」であった。」(「26 めだかの学校」の項より)
「「サッちゃんはね、サチコっていうんだ、ほんとはね。だけどちっちゃいから、自分のことサッちゃんて呼ぶんだよ。おかしいな、サッちゃん」これを標準語アクセントで読んでみる。もし「サッちゃん」のふしを知っている人がいれば、声を出して歌詞を読んだ時の抑揚やリズムが、そのまま(拡大強調されて)旋律になっているのを発見されることだろう。いや、単なる拡大強調にとどまらず、旋律が子供のお喋りの調子をうまく形どって、しかもやはり旋律としての個性の強さと美しさを備えている。自分のことを言っておかしいけれども、これは作詞者も知らないで詩の中に封じこめているリズムと抑揚を外へ引っぱりだして、魅力のある歌として定着する能力もしくは言語感覚を、作曲者が持っている証拠だろう。」(「37 サッちゃん」の項より)
「合唱、というのはふしぎなものだ。そんなに上手な合唱団の子供を一人一人別にして眺めてみると、ただ音楽が好きであるというだけで、特別に声楽のレッスンを受けているわけでもないし、まずひとりで歌えば十人なみが大部分、という普通の人の寄り合いと分るのだ。大人でも同じだ。その事情は変らない。(…)こんど気を落ち着けて歌い手の顔を1人ずつ眺めてみると、もう一度私は驚かざるを得なかった。兵隊服の男たちはもちろん、どの女の人を見ても、普通の顔立ちの、満員電車やさつまいもの配給の行列で出くわす顔ばかりだったからだ。だから、がっかりしたのではなくて、一たび燃えると、とつぜん美しく哀しい「ひびき」に昇華する人たちに、私は新しい畏敬の念をしんそこから持ってしまったのである。そして、それをなしとげさせる指揮者に対しても。(…)いまも充実した児童合唱団には、団員の特別なレッスンや素養ではなくて、普通の子供をそこまで燃やせる指揮者が必要なのだと言われている。そして充実した合唱団のうた声の輝きが、こんどは作曲家を刺激して、真正面から児童合唱に挑んで傑作を書かせるという連鎖反応を生んだ。」(「43 花のまわりで」の項より) 『阪田寛夫の世界』「第五章 多面体で描かれた子供の心と言葉」(2007年,和泉書院,谷悦子著)
「ところで、阪田寛夫は、幼児期より大勢の大人や子どもたちとの関わりの中で育っている。家族構成は、熱心なキリスト教徒だった両親と兄姉、母方の祖母、住み込みで阪田の世話や家事をしていたばあやとその娘であったが、家は教会の近くに建っていて、聖歌隊の練習が行われ、日曜学校・礼拝の度に信徒とその子どもたちとの交流があった。そのような環境のせいであろうか、阪田の作品には人間が中心に描かれている。[…] こどもの<父と母とに対する思い>を阪田がこのように描くことができたのは、彼の育った家庭環境が大きく影響していると思われる。[…]戦前まで日本の家庭は封建制・家父長制が支配的であったが、阪田家は、キリスト教の愛と音楽を二本の柱とした新しい形の家庭・家族であったのだ。それゆえ、神の前では夫婦も親子も兄弟も他者もみな平等であり、愛と音楽によって結ばれているという精神に貫かれていたといえよう。この父母と寛夫との関係は、「奈良市学園町」(『わが町』講談社)という作品の最後の部分に窺うことができる。死期の近づいた父を病院で母とともに看病している様子が描かれているのだが、父が母に向かって、「ワシャナ、モウスグ死ヌルデ」「アンタハナ 世界イチノ、ビジン」と話しかけると、母は時々笑って「甘えている。」「私は床にじかに敷いたマットレスに転がって寝たふりを」しているという場面だ。」
「[…]「おかあさんをさがすうた」(『サッちゃん』国土社)は、一貫して子どもの視点・発話によって母の不在を嘆いている。「おかあさん/いないんだ/いやだなあ」「でてきてよ おかあさん」と。[…]阪田寛夫が描いたのは、母に対する<不在への不安>と<永遠に在り続けてほしい願望>という普遍的な子どもの心であった。」 『声の力 歌・語り・子ども』「童謡の謎、わらべうたの秘密」(2002年,岩波書店)
「じつは今朝起きてカーテンをあけたら朝日がさして海も光っている。ああ今日もお天気かな、しかし昼から人前で長話をしなきゃいけないけれど、うまくいきそうもないなあ、なんて思っておりましたら、突然「ゴットンゴットン汽車さんが」という歌が出てきたんです。(…)年をとると、こんな工合に、脈絡なしにむかし歌った童謡が口をついて出てくることがあります。せっかく北海道に来ながら、白秋の「この道」でも思い出せばいいのに、色の黒い機関車の歌のような、誰も知らない、さえない歌が出てきます。(…)だいたい歌詞も曲も、当たり前でどうということもない歌が多いです。もし私が童謡作詩作曲コンクールの審査員なら、ABCランクのCランクにためらわず入れるような歌ばかりです。…ということは、幼いころの私の鑑賞能力が、かなり低かったという証拠になるのでしょうか。それとも大人からじいさんになるまでの酸っぱい時間の流れのなかで、子どものころの素朴な感覚とは違う悪しきプロ風判断基準のようなものを、サビのように身に付けてしまっていて、そのサビが、むかしはまっすぐ自分の心の奥深く飛び込んできた歌も、平凡だからダメだといばってCランクに追いやってしまったのか。私にとっては由々しき問題です。」
「(…)なつかしい童謡というものは、なんべん繰り返しても飽きることがないのですね。そういう属性を持っているらしい。ちかごろ童謡は子どものものではなくて、老謡になってしまったと嘆く人がいますが、(…)繰り返しが繰り返しを呼び、なつかしさをひとしお濃く染める童謡の性質は、いまもむかしと少しも変わりありません。」(阪田) 『木下順二対話集 人間・歴史・運命』「運命と人間について」(1989年,岩波書店)
「ぼくは戦争にはいやいや行ったし、病気ですぐ病院へ入ったりで、戦争に行っても見るべきものは見てないんですが(笑)。戦争体験も、あんまり声高に誇るような人の話は信用できませんが、しかし戦争といった生命を賭した経験をしないまでも人生に終始真面目にかかわって問い続けてる人は、割合に見るべきものを見てるのかな、と思います。(…)それに関連することなのですが、旧制高等学校で私より一年上の池田浩平という方が出征して間もなく亡くなったんですが、彼は戦争に行く直前まで考え続けたことを書きつけていて、その遺稿が本になっています。私たちの年頃の男は敗色が濃くなった最後の一、二年の間にみんな兵隊にとられる運命にあったのですが、あの頃はみんなが死生観というのをさかんにいって「海までは海女(あま)もみの借る時雨かな」という俳句を、これがおれの心境だなどと自分を安心させるために話し合ったりしたものでした。」(阪田)…
2019.07.01

角兵衛獅子

合唱作品『獅子の子幻想』(詩:蓬莱泰三/曲:鈴木輝昭)をより深く考えるための参考用として、角兵衛獅子に関するいくつかの資料を出典を明記の上、以下に並示します。
なお、『獅子の子幻想』(音楽之友社)の楽譜冒頭にて蓬莱氏は、「『獅子の子たち』の悲惨さを、表現としていくぶんでも和らげたい」という想いから、この作品を、「史実と虚構のはざま」で右往左往した結果としてのファンタジー(幻想)であり、整合性が欠けている点があるかもしれないことを言及しています。ついては、以下はそのファンタジーの生まれる土台となった角兵衛獅子の史実にまつわるものです。
 

『江戸職人歌合』より(石原正明著)より
 
 
「新潟市指定無形民俗文化財 越後月潟 角兵衛獅子の由来」
(新潟市南区産業振興課、角兵衛獅子保存会)
https://www.city.niigata.lg.jp/event/shi/event_minami/kakube.files/kakubeijisi.pdf
※「角兵衛獅子の舞」解説中に、「かにの横ばい」「青海波」「水車」「獅子の子落とし」「風車」の写真有
 
「越後獅子と角兵衛獅子」(©2018 新潟市南区観光協会、月潟を元気にする会)
http://www.shironekankou.jp/shishi/index.html
※角兵衛獅子の地域ごとの異称や巡業の形態、順路有
 
Facebook 角兵衛獅子保存会
https://www.facebook.com/kakube/
※現在の子どもたちの稽古風景有
 
you tube 角兵衛獅子の舞
https://youtu.be/cL0-MFD0aTM
※7分25秒~「獅子に牡丹か 牡丹に唐獅子」
 
『新潟県史 通史編7 近代二』「序章 近代と新潟県」(1988年、新潟県)
「[…]『天明以来の大洪水』といわれた明治二十九・三十年の信濃川・阿賀野川の一斉破堤が、その後の県や市町村財政に与えた影響は大きかった。この大水害に対する国の対応は冷たく、国庫補助金も県の申請額をはるかに下回った。[…]さらに、雪とのたたかいが新潟県民の生活にどれほど大きな影を落としているかは、想像を超えるものがあった。とくに、豪雪地の魚沼地方では、十一月下旬の初雪から翌四月までの五か月間は雪に閉じ込められた。人々は四~五メートルにも達する積雪を宿命とあきらめ、じっと耐え忍ぶのであった。[…]また新潟県は出稼ぎの多いことでも知られる。[…]米搗き・杜氏・木挽・屋根葺などの『関東出稼ぎ』から角兵衛獅子にいたるまで、実に多様な出稼ぎを送り出した。この多様な出稼ぎの存在は、農民を貧窮化させた『地主王国』の盾の一面ではあったが、他方で長期間、雪に閉ざされた越後の風土がつくりだしたものだったのである。」
 
『眼前小景』「三 珠乗角兵衛獅子」(敬文館、1912、笹川潔)
「人道の上から観ると、何ふも珠乗や角兵衛獅子の類は、残忍なる芸当で有る、それを親子相携へて見物したり喝采するのは、甚だ気の知れ無い沙汰と謂はねばならぬ。
 唯だ訳もなく面白がつて見て居る連中には、咎むべき廉が無いやうで有るけれども、見る子供と見らるゝ子供との間には、一種の社会主義的関係が生ぜずには居られない、少くとも他人の苦痛を娯んで見るといふ不仁の観念が伴はずには居られ無い。」…
2019.05.29

三好達治と鷗②

「三好達治論 象徴イメージ「鳥」と精神の構」(2003, 中井一弘)
( 原文:http://repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/462/1/AN103087570140002.pdf )
 
・『測量船』「鴉」(1929年)
  小野十三郎「迫りくるファシズムの予感」
  村上菊一郎「心にもなく幼年学校士官学校に学び、軍国主義教育の至上命令に従って 
        いた作者自身の若い日の彷徨に対する苦い悔恨」
  阪本越郎「軍隊教育の至上命令と服従が強制され、威嚇と敗北の苦しい記憶が、悪夢の
       ごとく、この詩人の脳裏をたえず襲ったことと推察される」
  ➡ しかし、なぜ、「私」は「鴉」に変身したのか?
    そして、なぜ、「鴉」は「言葉」を撒く存在だったのか
  「ここで注意すべきことは、先述したように、「鴉」の啼き声が「言葉」に置き換えられているということである。思うにここで、「私」は「言葉を撒く存在」―つまり「詩人」に変貌したのではないだろうか。そして、そのように考えれば、「私」の「鴉」への変身譚は、「詩人の誕生劇」と読み換えることも出来るのである。」
  「三好にとって、詩人としての自己認識は、絶対的な宿命であるとともに、悲痛な「敗北」の結果でもあった。「敗北」のもとに誕生した詩人である己の姿は、醜怪なものでしかありえない。そうした詩人としての自己のカリカチュア(戯画)が「鴉」なのである。」  ・三好の「鴉」イメージのルーツ
   石原八束:『測量船』における「鴉」以降の詩風は「フランス象徴詩風の不安感、懐疑感につつまれている。」
   北川冬彦:三好の学生時代の親友
        三好はこの詩(「鴉」)を書いた当時、ヴェルレーヌが獄中で書いた詩集
        『サジェス』を読み耽り、『サジェス』を読んで三好が一晩中泣き明かす
        ほど感動していた、という回想
        この涙する三好こそが「鴉」だった、と北川の説
        ➡ ヴェルレーヌの影響
          卒業論文「ポール・ヴェルレエヌの”智彗”に就て」
1929年 「鴉」発表
      『巴里の憂鬱』(ボードレール)の翻訳を刊行
1935年 『悪の華』(ボードレール)の抄訳を刊行
       ➡「信天翁」(ボードレール)と「鴉」の類似性
➡ 「鴉」のイメージでもって「詩人」を象徴するという発想  ・三好の「鴉」というイメージの使用系譜をわたって
 『測量船』の「鴉」からの流れをふまえて考えるならば、三好が「鴉」という醜怪な形象に託してきたものは、「詩人」が現実世界に分け入り世俗におもねることによって、自らのうちに「俗なるもの」を取り込み肥大させる結果、純粋なるものを失ってしまうことへの嫌悪感なのであった。  ・三好達治の1つの象徴としての「鷗」
  『艸千里』「鷗どり」を例に出して - …
2019.05.29

三好達治と鷗①

合唱作品「鴎」(詩:三好達治/曲:木下牧子)をより深く考えるための参考用として、本稿および次稿に分けて三好達治自身、また彼が「鴎」という言葉へ託した想いに関する箇所を並示します。気になる引用がある場合は原著にあたってください。 『梶井基次郎、三好達治、堀辰雄集』(1954年)「三好達治君への手紙」(桑原武夫)
「三好の人物評にはよく『狷介不覊』という漢語が用いられる。彼はかるがるしく自説をまげず、容易に妥協せず、詩壇においてはむしろ孤立しているように見受けられるところをさすつもりであろう。…もちろん誰も彼を常識家とはいうまい。しかし、彼にはたとえ常識家といわれても、それを詩人の誇りを傷けるものとはしないような点がある。彼の孤独を私も否定しない。ただ彼の孤独は、信州や越前の田舎に数年を暮らし、村の人々から先生としたわれうるような境地での孤独なのである。狷介は適切な評語ではない。」 『詩への接近 詩と詩人への芸術論的考察』(1980, 杉山平一)
「三好達治は、自身の詩そのものを、〈私のうたは砂の砦だ…
もとより崩れ易い砦だ〉と規定するがもとより、この崩落性は、
弱さではない。強い自負が歌わせている。」 『駱駝の瘤にまたがって -三好達治伝-』(1987, 石原八束)
「砂の砦」について 
「私のうたは砂の砦だと自分のうたを否定したところから、新たなうたの再出発をはたそうとするのである。」
「〈私のうたは砂の砦だ〉と云いながら、しかし、〈援軍無援〉と云いきる自信もある。全部の否定ではない。」 「三好達治戦争詩の考察」(2016,徳永光展)
「三好達治は,①『捷報いたる』(スタイル社 1942年7月), ②『寒柝』(大阪創元社 1943年12月),③『干戈永言』(青 磁社 1945年6月)に総数90を超える戦争詩を残している」
詩が情報ツールとして機能を持っていた、という指摘
 ➡ 「当時としては、時流に乗るということ=戦争を鼓舞する詩を書くということであり、さもなくが言論界から身を引くという選択しかなかった」
1915年9月大阪陸軍地方幼年学校入学
1918年7月東京陸軍中央幼年学校本科入学
1920年から半年間挑戦・会寧の工兵第19大隊に赴任
 帰国後、陸軍士官学校に入学し翌年退学
➡ 「…10代後半から20過ぎまでの6年余りを軍人として教育された事実は、三好の思想を語るうえで無視はできまい。」
『梶井基次郎、三好達治、堀辰雄集』(1954年)「三好達治君への手紙」(桑原武夫)
「戦争になつて君も戦争詩を作つたが、君はやはり自然詩人であつた。…日本の戦争詩の特色として、泥にまじる血、肉片、断末魔のうめき等の文字がないのは、このためである。君のその頃のものに和歌、俳句が多く、すべて文語詩であることも、このことと無関係ではないと思ふ。(文語でも現実は歌へる。たゞ文語はその現実から今のいぶきを消し去る作用をもつてゐる。)」…