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【演奏会】英語による芸術歌曲の世界 vol.1

小田の初企画演奏会です。ぜひご来場ください!
 
日 時:2024年4月27日(土)
    開場 13:30
    開演 14:00
場 所:コンサートサロン ALKAS
出 演:木川翔(バリトン)
    正木剛徳(バリトン)
    小田直弥(企画・ピアノ)
入場料:4,000円(全席自由)
問合せ:ypmdj309@gmail.com…
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【高校生対象】ピアノレッスン 4/26締切

僕の研究室主催で、高校生2・3年生向けの企画を行います。
もしよろしければ、ご参加ください!
 
申込方法:以下URLよりお申し込みください。
     https://forms.gle/p6PE1hwcCXhBuNcz9
締  切:4月26日(金)18時
対  象:高校生2・3年生(在住地域は問わない)
実施場所:弘前大学教育学部内(弘前市文京町1)
参加費用:無料
予定日時:5月9日(木)、6月6日(木)、7月4日(木)
     いずれも18時~20時
     ※個人レッスンであり、1人あたり1枠40分
定  員:3名/日
備  考:定員を上回る場合は、本当に困っていることがあったり、学びたいという意思が強い方を優先します。
     個人レッスンのスタイルで実施するため、お弾きになれる曲をお持ちください。
     ただし、クラシックのピアノ独奏作品に限ります。
お問合せ:n.oda7@hirosaki-u.ac.jp(小田)…
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情報誌「SAKURA」Vol.65

戸塚区民文化センター(神奈川)の発行する情報誌です。
6ページに小田の関連内容の紹介があります。
 
発行:2024年1月1日
https://totsuka.hall-info.jp/file/SAKURAvol65.pdf…
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第23回 新作歌曲の会

『音楽の友』(音楽之友社)2023年12月号にコンサートレビューが掲載されました。
「[・・・]このすべてが巧く作用しあえたのは、岡田愛の作品だろう。作品に対する理解と共感が、非常に深い次元で結実した演奏に拍手。[・・・]」(國土潤一)
 
岡田愛『茨城のり子の詩による歌曲組曲』
小泉詠子(メゾソプラノ)
小田直弥(ピアノ)
 
 
日 時:2023年8月24日(木)
    開場 18:00
    開演 18:30
場 所:川口総合文化センター・リリア 音楽ホール
出 演:鎌田直純(バリトン)
    石崎秀和(バリトン)
    横山和彦(テノール)
    下村将太(テノール)
    小泉詠子(メゾソプラノ)
    紙谷弘子(メゾソプラノ)
    森 朱美(ソプラノ)
    佐藤貴子(ソプラノ)
    生田美子(作曲)
    和泉耕二(作曲)
    岡田 愛(作曲)
    鈴木静哉(作曲)
    高島 豊(作曲)
    西田直嗣(作曲)
    野澤啓子(作曲)
    布施美子(作曲)
    和泉眞弓(ピアノ)
    畑めぐみ(ピアノ)
    藤原亜美(ピアノ)
    小田直弥(ピアノ)
    田中佳志子(朗読)
入場料:4000円…
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record


uta-dan


2024.01.16

2023年12月10日 公開講座 アンケートへのコメント

改めまして、東京学芸大学公開講座「歌曲コンサートの今」にご参加くださり、誠にありがとうございました。
その際にご協力いただきましたアンケートにて、質問をお寄せいただきましたため、10の質問について、回答をします。
 
なお、次回開催は 2024年9月頃 を予定しております。詳細は4月をお待ちください。
 
 
 
質問1
きれいな月も、冷たく見える月やあたたかく見える月もあり、自分(演奏者)と詩の中の感情が違うとき、どうしたらいいのかなという疑問が残りました。
 
石崎:
「自分」と「演奏者(もう一人の自分)」を別物と捉えて、「自分」は一旦置いておいて、「もう一人の自分」だったらこう感じる、演じるだろうなと切り離して考えて表現してみると面白いのかなと思いました。
 
森田:
演奏表現上の「私」とプライベートな「私」をどのように繋げるのかを考えると楽しいですよ。後者の「私」も一つではなく、先生としての私、夫としての私、演奏家としての私、就寝中の夢の世界の中にいると自覚している私、など。
 
 
 
質問2
先生方の選曲の基準を教えてください。基本的に好きな曲を選ばれていると思うのですが、例えば、曲は好きだけど詩に共感できないとき、どのようにアプローチされていますか。
 
石崎:
今回は「夜」というテーマを基に、「夜」に関連する曲を、作曲家毎に2~3曲ずつピックアップしました。最終的には森田先生の曲目と照らし合わせて、その時代や作曲家、曲の持つ雰囲気も絡めてプログラミングしました。また曲は好きだけど、詩は・・という場合(その逆も然り)も往々にしてありますが、質問1同様、「演奏者(もう一人の自分)」のキャラクターとして捉えて演奏しています(私の場合ですと、その「もう一人の自分」は、すでにその詩に対して共感している状態です!)。
 
森田:
「私がある曲を好き」になるのではなく、「ある曲が私に好きと思わせる何かを発している」と考えているかもしれません。
 
 
 
質問3
自分の声質や強みなどは、だいたいどのくらいで定まってくるのでしょうか。
 
石崎:
まず声質ですが、基本は生まれ持った「声帯」である程度は決まってしまうと思います。そして声質の判断材料にはパッサッジョの位置や日頃の訓練、そして舞台経験によっても変わってきますので、一概にいつとお答えするのは難しいですね。ちなみに「声帯」に関して興味があれば、声帯の専門医がいる耳鼻咽喉科で、一度ご自身の声帯を見てもらうのも良いかもしれません。例えば、バリトンである私がテノールに憧れていて、たとえ高音が出たとしても、声帯の厚みや長さ、また上記の判断材料を加味して(実際に専門医に伺ったうえで)、自分はバリトン(もしくはハイバリトン)である、というようなニュアンスです。あと「強み」に関してですが、主観的に捉えると、「強み」と「どれだけ好きで、その作品に心から没頭でき、自信を持つことができているか」は連動しているのではないかと思います。一方客観的に捉えると、どれだけそのジャンル(オペラか歌曲か、イタリアもの、ドイツものか等)のオファーが多いか、また求められているかという感じでしょうか。私の場合は、前者のケースでしたら20代前半で、客観的に捉えた場合は40代あたりで定まってきたのかなと感じています。
  
森田:
声種やそれぞれの身体によってかなり差があると思います。イタリアのオーソドックスな歌唱指導に則って学んだ場合、パッサッジョ(passaggio)で自分の声をどのようにコントロールするかを見ながら判断することが多いです。
 
 
 
質問4
ドイツ語からイタリア語へ移ったときの2言語の差や、特に気を付けたことを知りたいです。また、ピアノ伴奏の方も、ドイツ・イタリア語の違いやピアノの表現で意識したことを伴奏者の視点から教えてほしいです。
 
石崎:
プログラミングの観点からですが、一部の前半「イタリアの夜」では、トスティの中でも比較的ポピュラーな作品、後半「ドイツ・オーストリアの夜」では、ブラームスの定番な作品を並べたよく見かけるプログラミング。そして二部の前半「イタリアの夜」では、あくまでも主観ですが、どちらかといえばドイツ歌曲におけるプフィッツナーや20世紀の作品を彷彿させるピッツェッティやトッキのレパートリーが並び、後半「ドイツ・オーストリアの夜」でもコルンゴルトといった日本での上演は珍しい作品、シュトラウスにおいては比較的華美な作品を並べたプログラミングにしました。そして、それらがミックスされたとしても、一つのテーマを通して、歌曲コンサートとして一貫性のある、新しい形のプログラミングを心掛けました。特に気をつけたことは、異なる言語のプログラムにおいて言語差を感じさせないプログラミング、「詩」や「音楽」、そして韻律などの根底にある共通項を大切にしながら3人で作品を仕上げていったことでしょうか。
 
森田:
イタリアからの目線でドイツを眺め、「素敵な表現だな」とか「自分にはない表現だな」と素直に楽しめるマインドを大切にしました。またイタリアに関しては、イタリア人のメンタリティと、イタリア母語ではない演奏家個人の経験の接点を表現したいと努めました。
 
小田:
イタリアとドイツの歌曲の弾き分けは意識していることの1つです。自分なりの考えをいくつかの観点から書いてみたいと思います。
 
イタリアとドイツについて、彼らの文化に根付いている音や、発展のベースとなった音は、音作りのとても重要な参考になります。例えば、鍵盤楽器について言えば、チェンバロの音は、イタリアとドイツとで、随分と異なる響きになっています(フランスも大きく異なります)。そうした音を前提として、イタリアであればスカルラッティらが、ドイツであればバッハらが作曲の営みを行い、その歴史の延長に、今回演奏したトスティやピッツェッティ、またブラームスやR. シュトラウスがいるという整理は有益だと思います。作曲家たちが、どれほど意識的であったかどうかは分かりませんが、当時の楽器の音や、歌い手の声の特徴は、多少なりとも作曲行為に影響したと考えることが自然に思います。よりブラームスらしく、よりトスティらしく、という作曲家の頭で鳴っていたであろう響きを追い求めるならば、こうした「当時の音」という観点から、ピアノの音色の弾き分けを考えていくことは有効だと、個人的には考えています。その意味ではさらに、同じドイツ出身の作曲家だとしても、ブラームスとR. シュトラウスの演奏にも違いを考えていくことができると思います。
 
別の観点から、特に詩の観点から考えてみることも大切だと思います。アンサンブルピアニストは技術も知識も一流の人しかできないと言われるほどに難しいとされますが、その理由は、ピアノパート以外の音楽も熟知した上でピアノを弾かなければいけないからのように思います。特に詩への関心は、声楽のピアノを弾けるかどうかという意味で、大きな分かれ道になるかもしれません。
そもそも、イタリアとドイツの詩では、詩の作られ方が大きく異なります。イタリアの場合は、1詩行当たりの音節数が11であったり、7であったりですが、ドイツの場合は脚で数えていきますので、ヤンブスやダクトゥルスのような、脚の組合せによって詩が構成されます。このあたりは、説明し始めると長くなりますので割愛しますが、つまるところ詩の作られ方が違うということはリズムや詩のフレーズの質感も違います。作曲家は詩で用いられる言語や詩作法の特徴を活かして作曲しようとし、歌い手は詩のフレーズやリズム、意味などによって表現を紡ぐことから、ピアニストも詩に敏感に、表現(弾き分け)を考えていくことになります。
イタリア語とドイツ語のそもそもの響きの違いもありますし、イタリア人が言葉に凝縮したイメージ(シニフィアンとシニフィエの関係性)と、ドイツ人のそれとも大きく異なります。イタリア語の子音は母音の流れ(フレーズ)を干渉しないのに対して、ドイツ語では、例えば「geschwind」のように子音が大活躍するような単語も少なくありません。子音の響きが豊かな言語だとも言えますね。
 
この質問について、書き始めると止まらないのですが、それぞれの言語の音声学的な特徴や、文法といった言語学的な特徴、そして詩作法や詩として何が表現されているのかということに加えて、作曲家がその詩からどのような音のイメージをもって作曲したのか、作曲家は詩のどこにフォーカスして作曲しようとしたのかということなどを多角的に考え、では「演奏する私はどういう音をつくっていこうか」という思いで、イタリア語とドイツ語の歌曲を表現(弾き分け)をつくっていきたいと個人的には考えています。もちろん、歌い手の方との対話によって、表現がどんどん変わっていくこともとても大切なことですし、作品のイメージがぐっと深まったり、広がったりもします。それがアンサンブルの素晴らしいところです。
 
 
 
質問5
歌曲演奏時は直立不動で歌うことが多いのでしょうか?…

with


合唱団よびごえ

初めて合唱をする学生から高度な合唱を経験してきた学生まで、東京学芸大学音楽科学生有志で活動をしています。実践を通して「合唱×教育」を探究していきます。

春こん。東京春のコーラスコンテスト2024
「ユースの部 混声」銀賞


混声合唱のための『だるまさんがころんだ』より「Ⅰ」(矢川澄子詩/長谷部雅彦曲)
混声合唱のための『風の馬』より「第3ヴォカリーズ」(武満徹曲)
   

Youtubeでも演奏を聴くことができます😊


 

 

オペラ台本研究会

イタリアオペラの台本(セリフ)は韻文で書かれています。そのセリフは文字通りの意味だけでなく、背後に登場人物の心持ちや思いが存在しています。オペラ台本は単に読むための作品ではなく、上演されることを前提に書かれています。演者が声に出し、舞台上で演じることで成立するテキストなのです。これらの仕組みや作者の意図も含め台本を読み解いていくのが本研究会の主な活動になります。

#桜がみえる城下町で音楽研究してみた。

音楽を学ぶ学生と大学教員が、とある国立大学教育学部で行っている活動の記録。このnoteの主役は学生。遊び心と誠実さを大切に、のんびり更新していきます。 #一緒に音楽する? #弘前大学教育学部音楽教育講座ピアノ研究室

うたえ場♪英国

イギリスの歌曲や合唱作品がきれいなのは知ってるけど、イタリアやドイツ、日本歌曲のようには知らない…。 そこで「勉強してみよう!」と思い、立ち上げたnoteです。

memo


2019.11.18

日本の合唱作品に登場する特殊な記号たち

合唱は従来、いくつかのパートがそれぞれの音程やリズム、言葉を担い、それらが歌い手の身体を通して同時に再生されることで空間にハーモニーが生まれ、時には言葉の掛け合いが生まれるような音楽形態、と大変簡素ながらもまとめることができるかもしれません。それが、時代の流れの中で、創作者独自の哲学によってもたらされた様々な特殊唱法/奏法を取り込み、新たな体験へと拡張していることは、作曲家たちの生み出したその豊かな”記号たち”が示していると思われます。
そこで、以下では、日本の合唱作品における特殊唱法/奏法の一端を紹介することとします。これらの記号からは、合唱の含有するどの要素に対して作曲家が拡張の可能性を感じていたのか(例えば、拍子、声の使い方など)が読み取れるとともに、なぜそれらを開発し、採用しなければならなかったのか、という問いを与えてくれます。
「知らない記号=怖い=演奏しない」という思考にならず、どうか、日本が築いてきた合唱という体験の多様さと向き合うヒントにしていただけると幸いです。
 
<拍子に関するもの>
1.『ひみつ』「ひみつ」(谷川俊太郎/鈴木輝昭)
小節ごとの拍子の変化を、小節の左上に、数字で示しています。その基準となる音符は、ここでは四分音符です。

2.『のら犬ドジ』「ないてる……」(蓬莱泰三/三善晃)
小節ごとの拍子の変化を、小節の左上に、分数の形で示しています。

3.『のら犬ドジ』「ないてる……」(蓬莱泰三/三善晃)
小節ごとの拍子の変化が各小節の左上に分数の形で示されていますが、そこで用いられているのは「付点8分音符分の1」「付点8分音符分の1プラス8分音符」「8分音符×2」など、多様です。

 
<時間に関するもの>
4.『狐のうた』「醜聞」(会田綱雄/三善晃)
拍子の代わりに、この作品では3秒ごとに基準となる印が示されており、それを基準に音楽を進めていくことが記されています。指揮者がストップウォッチを持ち込んで演奏することがあります。

5.『狐のうた』「醜聞」(会田綱雄/三善晃)
全休符の代わりに、ひし形に斜め線の入った記号が使われています。単純な休符ではなく、描かれている情景や音楽の流れにあった「間」をとることが意図されていると考えられます。

 
<音の伸ばしに関するもの>
6.『のら犬ドジ』「ないてる……」(蓬莱泰三/三善晃)
倍全音符に似た記号が書かれてありますが、これは次の指示があるまで伸ばし続けることが意図されている、と考えられます。

7.『梟月図』「何が泣いただろうか」(宗左近/鈴木輝昭)
ここでは「B.O.」「B.F.」という、2種類のハミングが示されています。「B.O.」から「B.F.」、またその逆という組み合わせは音量の増減を意図して使用される場合があります。例えば、「B.F.」(口を閉じたハミング)から「B.O.」(口を開いたハミング)へと連続して歌唱すると、同じハミングでも、閉じていた口を開けることになるため音量も自然に大きくなります。この楽譜では、「B.F.」から「B.O.」になることで音量が自然に増すことが強弱記号でも示されています。(piu P から Pへと指示が変化している。)
ハミングについては、この他、様々な表記がなされることがあり、「B.F.」と同義なのは「Hum.」「m」、「B.O.」と同義なのは「ん」「n」等があります。

8.『Voice』「Since I was born…」(木島始/信長貴富)
黒塗りの全音符にフェルマータが付記されており、そこからナレーションのセリフへ矢印が示されています。これは、ナレーションが発音し終えるまで音を伸ばし続ける、という意味であり、その後は、ナレーションが終わるとそれに反応して次のフレーズへとつながる、という指示になっています。

 
<声の使い方、表現に関するもの>
9.『合唱のためのコンポジション14番』「KANJO」(間宮芳生)
黒く塗りつぶされた部分は、可能な限りその範囲の音を埋め、クラスターを作るよう意図されいています。写真の左側のクラスターの場合は、例えば、「レ、レ♯、ミ、ファ、ファ♯、ソ、ソ♯、ラ、ラ♯、シ、ド」をすべて発声することになります。右側のクラスターでは、最初は1音から、次第に音が重なり、ソの音までクラスターが広がるよう指示されています。
このようなクラスターの書法は『原爆小景』「日ノ暮レチカク」(原民喜/林光)でも見られます。

10.『合唱のためのコンポジション14番』「SHINGON」(間宮芳生)
ここでは、声楽的な歌唱よりも話すような声の使い方で、例えばテノール1であれば、およそシの音の高さで「n」を発音し、4拍かけて低いラの音辺りまでグリッサンドで下降し、その後「no」「mo」「no」「mo」を繰り返す中で次第にささやき声のように音量を落としていくよう、指示がなされています。

11.『のら犬ドジ』「ドジじゃないぞ」(蓬莱泰三/三善晃)…
2019.10.07

パレストリーナへの視点

現在もなお愛されているイタリア・ルネサンス後期の音楽家、パレストリーナ(正式な名を)は「教会音楽の父」と呼ばれることもあり、西洋音楽の歴史をたどっていく中で、1つのポイントとなる人物です。
ここでは、以下、パレストリーナに関して記されたいくつかの文献から、彼をめぐるいくつかの視点と、彼の代表作の1つである「Sicut cervus desiderat ad fontes」の演奏に関する記述も例示します。
 
 「パレストリーナは、ローマ近郊の町に生まれ、一生涯にわたってほとんどローマに住み、そこで活動した。彼の関心は、事実上、専ら宗教音楽にのみ集中していた。彼は、100曲以上ものミサ曲と数百曲ものモテットを書いたが、世俗曲はほんの数曲しか作曲しなかったのである。彼は、生前にも高い評価を得ていたが、死後には、いわば、彼の時代の完璧な大作曲家として大天才の位置に列せられ、更に大きな評価を受けるようになった。彼の諸作品は、完璧な手本とされ、今日に至るまでの声楽的対位法の教育の基本となった。他に比肩するもののないほどのこうした称賛を彼が得たのは、或る程度まで、歴史的偶然の結果だったとも言える。つまり、彼は、同時代の他のとても優れた作曲家達に比べて、それほど図抜けていたわけではなかった。だが、そうとはいえ、彼の音楽は、疑いなく、典礼式用の音楽に必要とされる諸条件を見事に満たしているし、そして、トレント公会議の精神に―常に文字通りにではないにせよ―順っているのである。」 (p202-204, デイヴィッド・G・ヒューズ『ヨーロッパ音楽の歴史』)  
 「[…]このようなパレストリーナの経歴に加えて、彼の作品のほとんどが宗教音楽であることから、彼は典型的なローマ・カトリック教会の作曲家であると言えるだろう。しかしパレストリーナは、人間的にも音楽的にも、一般に思われているほど世俗的要素を寄せ付けないような作曲家であったのではない。たとえば、世俗曲の旋律をミサ曲の素材として用いて、「ミサ戦士」という作品を書いたり、あるいは「四度のミサ」とか「無名のミサ」という不明瞭な曲名をつけることによって、世俗的素材を使用していることを隠すかのようなこともやっている。」 (p167, 須貝静直「ジョヴァンニ・ピエール・ルイジ・ダ・パレストリーナ」『ルネッサンス・バロック音楽の世界―バッハへ至る道』)  
 「彼[パレストリーナ]とともに音楽は新しい段階に足を踏み入れた。精神が音楽的素材を完全に支配し、個々の音をしっかりと捉えた。音楽は言語を映す鏡となり、言葉を語る存在としての人間を実現する能力を得た。装飾(あるいは構成)と人間表現との綜合が達成された。それによって、パレストリーナとともに音楽史上の新しい時期、すなわち人間の表現としての音楽という時期が始まったのである。」 (p96, T・G・ゲオルギアーデス『音楽と言語』)  
 
〇ルネサンス ― パレストリーナの生きた時代
・ルネサンスという時代
 「音楽史におけるルネサンスは、ギョーム・デュファイ(1400頃―74)、ジル・バンショワ(1400頃―60)、アントワーヌ・ビュノワ(1400頃―92)等、フランドル出身の音楽家たちがブルゴーニュ公国を中心に活躍し、アルス・ノヴァ以来のフランスの伝統的作曲技法を中核として、それにイギリスの充実した和声感とイタリアの流麗な旋律法とを同化することによって新しい国際的なポリフォニー様式をつくりだした十五世紀中頃にはじまり、フィレンツェのカメラータがモノディを創作することによって音楽史上のバロックを切り開いた十六世紀末にいたるまでの約一世紀半ということになる。」 (p73, 永田仁「パレストリーナとルネッサンスの教会音楽」『ルネッサンス・バロック音楽の世界―バッハへ至る道』)  
 「ルネサンスは、詩と音楽の『正しい』関係が真剣に論じられた時代であった。もちろん、ギリシャの芸術を手本として。しかし残念なことに、古代の音楽そのものは残されていなかった。手本にする作品そのものがないのだから、せめて理論的に古代の考え方を学ぶのが先決だった。ルネサンス人の感心なところは、いや無謀な(といった方がいいかもしれない)ところは、ギリシャ音楽と彼ら自身の音楽に、どんなに大きな違いがあるかをさして気にもとめずに、理論的研究にとどまることなく実践にものりだした点であろう。[…]この時期には言葉と音楽の関係も、今日的な見方をすれば、衒学的な迷路にまよいこんでしまったかに見える。本書が扱ってきたのは、まさにこの時期の音楽を中心としているのだ。歌詞には往々にして隠された意味があり、音楽づけは基本的に視覚的である。こうして出来あがった曲は、えらばれた者のエリート意識をくすぐる謎解きの材料となる。
 1500年代も末に近づくと、プロとアマチュアの音楽家たちに、詩人や言語学者をまきこんで、新たな観点からの『正しい言葉と音楽の関係』『正しい音楽のあり方』を追求する動きがやはりフィレンツェではじまった。作曲者でもなく、演奏者でもない、第三者としての『聴き手』の立場が意識されていた点が、新しい運動のポイントの一つであった。」 (p221-222, 岸本宏子『ルネサンスの歌物語』)  
 「私たちは音楽を耳で聴くものと思いこんでいるが、耳に訴える曲づくりが作曲の正統派になったのは、実は1600年をすぎてからのことなのだ。たしかに、耳で聴いて感動を受ける作品はすばらしい。けれど、言葉を理解しなくても万人に感銘を与える作品のほうが、普遍的な価値を持ち、それゆえに優れているといいきれるだろうか。そんなことをいえば、聴き手の言葉の理解力に左右される声楽より、万人に同等に訴えかける器楽の方が優れている、という論議にもなりかねない。」 (p228, 岸本宏子『ルネサンスの歌物語』)  
 
・パレストリーナに至るまでのイタリアの音楽
 「十五世紀のイタリア人が好んで作曲したシンプルな歌曲のたぐいは、いずれもホモフォニックな三声または四声の有節歌曲である。[…]芸術的に高度な形式の詩が歌詞に選ばれるようになって、音楽面でもフロットラからマドリガーレへの決定的な第一歩がはじまった。はじめに設定した二つあるいは三つの旋律線に、詩をなんとかあてはめ押し込んでしまうという、フロットラのやり方は次第に消えていく。それに代わって一行一行の内容にあわせて音楽を新たに織り上げるようになる。すなわち、有節形式は捨てられ、通作形式が採用されるようになったのである。それとともに、歌詞の一語一語、一行一行の内容にふさわしい表現をもとめて、旋律も変化に富んだものとなっていく。もう一つの大きな変化は、ホモフォニックな様式のなかに、フランドル風の模倣的ポリフォニーが浸透していったことである。そしてまたマドリガーレの通作化から、歌詞はなにも定型詩である必要がなくなって、自由形式詩をふくむ多様な詩が用いられるようになる。」…

profile


小田 直弥(おだ なおや)

東京学芸大学大学院(声楽領域)修了。2012年音楽之友社主催のオーディションを経てザクセン州立国立歌劇場での研修(声楽)に参加。2014年春期ミュンヘン国際音楽セミナーオペラ部門(声楽)を修了。声楽の共演ピアニストとして、近年では「コルンゴルトの夕べ」(2018,バリトン:石崎秀和氏)、「大野徹也リサイタル~東京学芸大学退官記念~」(2019)、「新作歌曲の会第21回演奏会」(2021)、「高橋美千子ソプラノリサイタル Romances sans Paroles-無言の恋歌」(2023)等がある。合唱指導を担当する「合唱団よびごえ」は、「東京春のコーラスコンテスト2022 ユースの部 女声」で金賞・1位, 東京都合唱連盟理事長賞を受賞。教育の実践的研究も含め、「演奏」「教育」「研究」の3つの柱で活動を行っている。
国立大学法人弘前大学教育学部音楽教育講座助教、特定非営利活動法人東京学芸大こども未来研究所学術フェロー、合唱団よびごえ指導者。