uta-dan


2023年12月10日 公開講座 アンケートへのコメント

改めまして、東京学芸大学公開講座「歌曲コンサートの今」にご参加くださり、誠にありがとうございました。
その際にご協力いただきましたアンケートにて、質問をお寄せいただきましたため、10の質問について、回答をします。
 
なお、次回開催は 2024年9月頃 を予定しております。詳細は4月をお待ちください。
 
 
 
質問1
きれいな月も、冷たく見える月やあたたかく見える月もあり、自分(演奏者)と詩の中の感情が違うとき、どうしたらいいのかなという疑問が残りました。
 
石崎:
「自分」と「演奏者(もう一人の自分)」を別物と捉えて、「自分」は一旦置いておいて、「もう一人の自分」だったらこう感じる、演じるだろうなと切り離して考えて表現してみると面白いのかなと思いました。
 
森田:
演奏表現上の「私」とプライベートな「私」をどのように繋げるのかを考えると楽しいですよ。後者の「私」も一つではなく、先生としての私、夫としての私、演奏家としての私、就寝中の夢の世界の中にいると自覚している私、など。
 
 
 
質問2
先生方の選曲の基準を教えてください。基本的に好きな曲を選ばれていると思うのですが、例えば、曲は好きだけど詩に共感できないとき、どのようにアプローチされていますか。
 
石崎:
今回は「夜」というテーマを基に、「夜」に関連する曲を、作曲家毎に2~3曲ずつピックアップしました。最終的には森田先生の曲目と照らし合わせて、その時代や作曲家、曲の持つ雰囲気も絡めてプログラミングしました。また曲は好きだけど、詩は・・という場合(その逆も然り)も往々にしてありますが、質問1同様、「演奏者(もう一人の自分)」のキャラクターとして捉えて演奏しています(私の場合ですと、その「もう一人の自分」は、すでにその詩に対して共感している状態です!)。
 
森田:
「私がある曲を好き」になるのではなく、「ある曲が私に好きと思わせる何かを発している」と考えているかもしれません。
 
 
 
質問3
自分の声質や強みなどは、だいたいどのくらいで定まってくるのでしょうか。
 
石崎:
まず声質ですが、基本は生まれ持った「声帯」である程度は決まってしまうと思います。そして声質の判断材料にはパッサッジョの位置や日頃の訓練、そして舞台経験によっても変わってきますので、一概にいつとお答えするのは難しいですね。ちなみに「声帯」に関して興味があれば、声帯の専門医がいる耳鼻咽喉科で、一度ご自身の声帯を見てもらうのも良いかもしれません。例えば、バリトンである私がテノールに憧れていて、たとえ高音が出たとしても、声帯の厚みや長さ、また上記の判断材料を加味して(実際に専門医に伺ったうえで)、自分はバリトン(もしくはハイバリトン)である、というようなニュアンスです。あと「強み」に関してですが、主観的に捉えると、「強み」と「どれだけ好きで、その作品に心から没頭でき、自信を持つことができているか」は連動しているのではないかと思います。一方客観的に捉えると、どれだけそのジャンル(オペラか歌曲か、イタリアもの、ドイツものか等)のオファーが多いか、また求められているかという感じでしょうか。私の場合は、前者のケースでしたら20代前半で、客観的に捉えた場合は40代あたりで定まってきたのかなと感じています。
  
森田:
声種やそれぞれの身体によってかなり差があると思います。イタリアのオーソドックスな歌唱指導に則って学んだ場合、パッサッジョ(passaggio)で自分の声をどのようにコントロールするかを見ながら判断することが多いです。
 
 
 
質問4
ドイツ語からイタリア語へ移ったときの2言語の差や、特に気を付けたことを知りたいです。また、ピアノ伴奏の方も、ドイツ・イタリア語の違いやピアノの表現で意識したことを伴奏者の視点から教えてほしいです。
 
石崎:
プログラミングの観点からですが、一部の前半「イタリアの夜」では、トスティの中でも比較的ポピュラーな作品、後半「ドイツ・オーストリアの夜」では、ブラームスの定番な作品を並べたよく見かけるプログラミング。そして二部の前半「イタリアの夜」では、あくまでも主観ですが、どちらかといえばドイツ歌曲におけるプフィッツナーや20世紀の作品を彷彿させるピッツェッティやトッキのレパートリーが並び、後半「ドイツ・オーストリアの夜」でもコルンゴルトといった日本での上演は珍しい作品、シュトラウスにおいては比較的華美な作品を並べたプログラミングにしました。そして、それらがミックスされたとしても、一つのテーマを通して、歌曲コンサートとして一貫性のある、新しい形のプログラミングを心掛けました。特に気をつけたことは、異なる言語のプログラムにおいて言語差を感じさせないプログラミング、「詩」や「音楽」、そして韻律などの根底にある共通項を大切にしながら3人で作品を仕上げていったことでしょうか。
 
森田:
イタリアからの目線でドイツを眺め、「素敵な表現だな」とか「自分にはない表現だな」と素直に楽しめるマインドを大切にしました。またイタリアに関しては、イタリア人のメンタリティと、イタリア母語ではない演奏家個人の経験の接点を表現したいと努めました。
 
小田:
イタリアとドイツの歌曲の弾き分けは意識していることの1つです。自分なりの考えをいくつかの観点から書いてみたいと思います。
 
イタリアとドイツについて、彼らの文化に根付いている音や、発展のベースとなった音は、音作りのとても重要な参考になります。例えば、鍵盤楽器について言えば、チェンバロの音は、イタリアとドイツとで、随分と異なる響きになっています(フランスも大きく異なります)。そうした音を前提として、イタリアであればスカルラッティらが、ドイツであればバッハらが作曲の営みを行い、その歴史の延長に、今回演奏したトスティやピッツェッティ、またブラームスやR. シュトラウスがいるという整理は有益だと思います。作曲家たちが、どれほど意識的であったかどうかは分かりませんが、当時の楽器の音や、歌い手の声の特徴は、多少なりとも作曲行為に影響したと考えることが自然に思います。よりブラームスらしく、よりトスティらしく、という作曲家の頭で鳴っていたであろう響きを追い求めるならば、こうした「当時の音」という観点から、ピアノの音色の弾き分けを考えていくことは有効だと、個人的には考えています。その意味ではさらに、同じドイツ出身の作曲家だとしても、ブラームスとR. シュトラウスの演奏にも違いを考えていくことができると思います。
 
別の観点から、特に詩の観点から考えてみることも大切だと思います。アンサンブルピアニストは技術も知識も一流の人しかできないと言われるほどに難しいとされますが、その理由は、ピアノパート以外の音楽も熟知した上でピアノを弾かなければいけないからのように思います。特に詩への関心は、声楽のピアノを弾けるかどうかという意味で、大きな分かれ道になるかもしれません。
そもそも、イタリアとドイツの詩では、詩の作られ方が大きく異なります。イタリアの場合は、1詩行当たりの音節数が11であったり、7であったりですが、ドイツの場合は脚で数えていきますので、ヤンブスやダクトゥルスのような、脚の組合せによって詩が構成されます。このあたりは、説明し始めると長くなりますので割愛しますが、つまるところ詩の作られ方が違うということはリズムや詩のフレーズの質感も違います。作曲家は詩で用いられる言語や詩作法の特徴を活かして作曲しようとし、歌い手は詩のフレーズやリズム、意味などによって表現を紡ぐことから、ピアニストも詩に敏感に、表現(弾き分け)を考えていくことになります。
イタリア語とドイツ語のそもそもの響きの違いもありますし、イタリア人が言葉に凝縮したイメージ(シニフィアンとシニフィエの関係性)と、ドイツ人のそれとも大きく異なります。イタリア語の子音は母音の流れ(フレーズ)を干渉しないのに対して、ドイツ語では、例えば「geschwind」のように子音が大活躍するような単語も少なくありません。子音の響きが豊かな言語だとも言えますね。
 
この質問について、書き始めると止まらないのですが、それぞれの言語の音声学的な特徴や、文法といった言語学的な特徴、そして詩作法や詩として何が表現されているのかということに加えて、作曲家がその詩からどのような音のイメージをもって作曲したのか、作曲家は詩のどこにフォーカスして作曲しようとしたのかということなどを多角的に考え、では「演奏する私はどういう音をつくっていこうか」という思いで、イタリア語とドイツ語の歌曲を表現(弾き分け)をつくっていきたいと個人的には考えています。もちろん、歌い手の方との対話によって、表現がどんどん変わっていくこともとても大切なことですし、作品のイメージがぐっと深まったり、広がったりもします。それがアンサンブルの素晴らしいところです。
 
 
 
質問5
歌曲演奏時は直立不動で歌うことが多いのでしょうか?
 
石崎:
オペラで見られるような動き(身振り)は歌曲ではあまり見受けられませんが、歌曲の演奏=直立不動では決してありません。もちろん演奏者に委ねられるところが多いのですが、歌曲においても、例えばこういう表現を体現したいので直立不動で、はたまた身振りをつけるといったことがあります。
 
森田:
個人的には歌曲演奏の際、オペラのように身体全体で表現することを想定した動きはつけません。そのような意味では「動かない」のですが、動かない(不動である)ことが目標になってしまうことで、身体が硬直しているように見えるのも避けたいものです。例えば、「腕を上げる」ことが良い・悪いではなく、心と体が連動した状態で、歌唱表現の一部として腕が自然に上がったのであれば歌曲でも結果として動くこともあるかもしれません。
 
 
 
質問6
楽譜を通して作曲者と対話する演奏ができるようになるためには、どの様な工夫が必要ですか?
 
石崎:
非常に重要なテーマですね。もちろん私も道半ばという前提でお話しますと、楽譜に書かれていること、または書かれていないことをイメージ、表現、演奏するにあたって、作曲家の生まれた時代背景や文化、そして言語、もちろん音楽的な分析を踏まえて、その時の自分の人間性や音楽性をもって、いかに真摯に作品と対峙するかということに尽力しています。工夫という意味では、私も勉強したいところです。
 
森田:
非常に素晴らしく、かつ難しい質問ですね。私も「工夫」を知りたいです。やはり、楽譜に「書かれていること」「書かれていないこと」「書ききれなかったこと」を読み取ることでしょうか。
 
 
 
質問7
気候や風土の違う国や地域での演奏は感じ方が違うと思いますが、その点はどう思いますか?
 
石崎:
この違いをいつも楽しむようにしています。個人的には、ドイツ歌曲とイタリア歌曲を比較するとき、なるほど、気候や風土、文化が異なるから言語に宿る表情や感情、発語の仕方も自ずとドイツ歌曲とは違いが出てくるのか、ということに着眼しつつイタリア歌曲を勉強しています。
 
森田:
「感じ方」の違いを知り、違いを知ることの素晴らしさをいかに伝える(つなぐ)か。演奏家としての役割とやりがいはここに尽きるのではないでしょうか。
 
 
 
質問8
私は趣味で声楽を習っています。対訳を読んで詩の世界を歌で表現しようとすると、歌詞の意味を自分に置き換えることに難しさを感じています。イメージをどう作るか、考えあぐねることが多くあります。いかがでしょうか?例えば、ブラームスの「君の青い瞳」は難しかったです。
 
石崎:
興味深い質問ですね。まずは対訳そのものに、誤訳や意訳しすぎて本来の「詩」の意味からかけ離れてしまう内容の対訳も少なくありません。私の場合はなるべく直訳にして、「詩」の流れがシンプルになるように努めて対訳を作成します。またその上でイメージをどう作るかですが、詩に書かれていることをもとに、書かれていないこともイメージして、自分なりのストーリーを作成します(ここに正解はありません!)。例えば「君の青い瞳」の場合ですと、「主人公は男性、女性?」「今の二人の状態は?」「主人公の今の心情は?」「なぜ君の瞳は湖のように冷たいの?」など、具体的に出てくる疑問を丁寧に拾い解釈していくと、イメージが作りやすくなるのではと思っています。
 
森田:
詩の世界をそのまま自分の世界に置き換えるのは難しいこともあります。そのような場合、私は訳語として理解している世界が違っている可能性を探ってみます。例えば、「涙」という単語や「涙を流す」という表現があった場合、その涙はどうして、どのように流れるのか、そこに具体的な苦しみがあるのか・ないのか、止めようとすれば止められるのか、誰か周りにいるのか・いないのか、それによって涙の出方か変わるのか、等。私はこんな世界を想像するのが楽しいです。
 
 
 
質問9
声楽への参加の仕方として、「表現者として」という立場は「学びとして」に分類されるのでしょうか。ジャンルに関わらず、歌っている瞬間は「普段の私」とは違う自分と出会える、そういう自分としてあるいはその世界の住人として生きる時間を得ている方々もいるのかなあと思いました。
 
小田:
とても重要なご質問をありがとうございます。
「普段の私」と、「普段の私とは違う自分」という、2人の登場人物(2つの視点)を立ててくださいました。ご質問をいただいている「表現者として」「学びとして」というのは、もしかするとその2つの視点の違いとも言えるのかもしれない、と質問をいただくことで気づくことができました。「普段の私」を中心にする場合は「学び」、「普段の私とは違う私」は「表現者」なのかもしれません。
例えば、普段の私の生活が平凡に思えるものであったとしても、情熱的な愛を歌うときは「普段の私とは違う自分」として堂々と世界を生きているような感覚があるかもしれませんし、大切な自分の子どもに子守歌を歌うときには、もしかするといつもよりも静かで、温かい感覚になるかもしれません。そうした特別な感覚は、歌の芸術のとても本質的なところに思いますし、そうした感覚で歌うことは「表現者」として声楽の活動に参加していると言って良いように思います。それと同時に、(普段の)私は、声楽を通して多様な自分や、世界とのかかわり方を「学」んでいるとも言えると思います。こうしたことは、ご質問にもある通り、「ジャンルに関わらず」言えることだと思います。
ご質問内容、とても深いなぁと思いました。感謝です!
 
 
 
質問10
公開講座の内容とは直接関係は無さそうですが、合唱指導で大切にしていること、心掛けていることがあれば教えてください。
 
石崎:
まず、個々の声の魅力を失わないように心掛けています。そして過度に声をコントロールして表現が窮屈になっていないか(実際、そのようなケースでは自然な発声でコントロールできていないことが多く見受けられます)等を常に窺っています。それは表現に関しても同様な事が言えると思います(個々の表現が失われて、画一的な表現になっていないか等)。また指揮者の音楽や表現をそのままなぞるような演奏にならないよう、指揮者と在籍するメンバー間で音楽や表現の方向性を可能な限り共有するようにしています。
 
森田:
指導する際に心がけていることは、まず、それぞれの人が持っている自然で豊かに響く声を見つけることです。簡単なようで大人にとっては難しいようです(心や考え方を柔軟にしたり、まったく新しい考えを受け入れることが求められるので)。しかし、これこそが合唱の、歌の魅力だと考えています。
 
小田:
僕の場合は、指導者が表現をどんどん作っていくような合唱稽古ではなく、作品について団員と対話し、表現を試行錯誤しながら、団員に表現の主体がある歌を歌っていくような合唱の稽古を理想と考えています(基礎は僕の方で作ることが多いですが、そこから自分たちらしい表現をつくっていくのは団員に委ねるというスタイルです)。そうした合唱活動ができるように、団の雰囲気や指導者と団員との関係性をどのようにつくっていくか、これらをとても大切にしています。
合唱って不思議じゃありませんか?歌曲演奏の場合は、歌い手もピアニストもプログラムに名前が載りますが、合唱の場合、その多くは、プログラムに名前が載るのは指揮者とピアニストで、あとは合唱団名となり、団員個人は、団名の名の下に隠れています。そこにひとたび「教育」(特に生涯学習)のフィルターを通して、団員1人1人が主役であると考えた時に、団員が主体性を発揮し、創造性を働かせ、仲間と協力して音楽をつくっていく、その過程で努力し、今まで見えなかった音楽や仲間の良さが見えるようになり、感性が拓かれていく、するとちょっとずつ毎日が楽しくなっていく…、合唱活動を通して団員一人一人にそんな経験を重ねていってほしい、またそれを応援できるような合唱への関わり方をしていきたいと、そんなことを思っています。合唱活動を教育的に考えているのだと思います。
実際の稽古では、質問8で石崎先生が回答くださっているように、詩や音楽について、自分なりの考えをもつためのきっかけとなるような問いを投げたり、団員からのアイデアを拾いながら具体的な音楽表現に変換していく手伝いをしています。これまで、たくさんの素晴らしいアイデアに出会ってきました。「ぜんぶ」(さくらももこ/相澤直人)や「前へ」(佐藤賢太郎)といった馴染みやすい曲は、取り組みやすい一方で解釈が固まりやすいようにも思うのですが(似たような演奏になりやすい)、団員と対話を重ねると「なるほど!そんな見方があったのか!」と僕が勉強になることが本当に多く、その時のメンバーだからこその意図や想いのこもった特別な演奏がつくれるように思います。今取り組んでいる「だるまさんがころんだ」(矢川澄子/長谷部雅彦)も、団員の素晴らしいアイデアが炸裂しています。同じ曲でも、メンバーが変わると、きっと違う姿を見せてくれると思っています。そうした演奏のためには、指導者と団員の全員で演奏をつくっていく、という考えがキーになってくるのではないかと考えています。(生涯学習の視点を持たないプロフェッショナルな合唱の場合は、むしろ、この考え方は不要なのかもしれませんが…。)
こうして、自分で音楽について、詩について考え、歌ってみる経験は、きっと僕以外のところで合唱をするときも、一人でお歌いになるときも、役に立ってくれるのではないかな、と信じています。また、みなさんのご意見をお聞かせください!
 
 
 


また公開講座でお会いしましょう!

感謝を込めて。