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「リート」の枠を再考する

内面的で個人的な自己告白的な表現形態としてのリートの伝統、[…]、
シュトラウスの<4つの最後の歌 Vier letzte Lieder>(1948)が,このジャンルにとって
文字どおりの最後のリートとなったといえるだろう。

『ニューグローヴ世界音楽大辞典』「リート」の項より

小田石崎先生、お忙しい中お時間を割いていただき、またこのような企画にお力添えくださりありがとうございます。ここでは「歌談」と題して、演奏者であり教育者である石崎先生と、定期的に「歌」にまつわるいろいろなお話をさせて頂けると嬉しいです。またこの「歌談」では、何か達成感のある着地点を前提としたトークというよりも、もう少し自由に進めていきたいです。

石崎よろしくね。

小田歌談の最初のテーマとしては、先生が大切にされているジャンル「リート」の話題からスタートできれば嬉しいです。
まず、リート(Lied)というと、いくつかすでに言われている枠(定義)があると思っていて、例えば有節歌曲形式のものをリートという、とか、民謡など民衆に近いものをリートという、など。また、ブラームス(1833-1897)はリートの理想は民謡であると言ったようで、リートってこういう方向を向こうね、というベクトルの提案を行ったと思います。

石崎そうだね。

小田いくつかの本を見ていくと、リートという言葉は多様な解釈が可能だと感じていて、リートってこうも捉えられるんじゃないか、という議論は尽きないと思うのですが、この点、石崎先生はどうお考えでしょうか?

石崎難しいよね。例えば、芸術歌曲の位置づけとして、R. シュトラウス(作曲家/1864-1949)の時代が終わって、A. ツェムリンスキー(作曲家/1871-1942)、A. シェーンベルク(作曲家/1874-1951)、A. ベルク(作曲家/1885-1935)も含めて良いのか、と言い始めると、E. W. コルンゴルト(作曲家/1897-1957)も入れたくなってしまう。むしろ、リヒャルトの本当の後継者はコルンゴルトだと個人的には言いたくなるぐらいだし、時代に隠れた作曲家としてC. レーヴェ(作曲家/1796-1869)の位置も考えたいと思っています。つまり、歌曲と呼ばれるものすごく大きな枠組みの中でリートを考える時には、俗に言われる”系列”にヒントがあるのではないかと思っています。なので、コルンゴルトが書いた歌曲作品と、例えばオペレッタ作曲家が書いた歌曲作品というのは、またちょっと変わってくる印象があります。

小田なるほど。”系列”というのは確かにあると感じました。

石崎いわゆる音楽史的に決まったレールがあるよね。例えば、リートは古典派以降、ロマン派以降など、どういう分け方だとしてもそこには枠があって、今は、その枠を取っ払ってもう一度リートを考えたいという想いがあるかな。
それを考えるきっかけになったのは、ヘルマン・プライ(バリトン/1929-1998)のLPの、確か20何枚組かな?、それはミンネザング*から現代の無調のところまで全部網羅したものだったんだよね。それは自分の中でレパートリーの基軸になってるかな。
それこそ、F. グルダ(ピアニスト/1930-2000)が作曲したドイツ歌曲もふくまれていて、実験的な曲だとは思うんだけど、詩はスタンダードでポピュラーではないし、でもリートのラインに入っちゃうんじゃないかな、と感じたんだよね。だからなにか、音楽史に捉われない流れでリートというのはあるんじゃないかな、と僕の中では思っています。

*ミンネザング…12~14世紀のドイツ語圏にて、主に「愛」をテーマとしてミンネゼンガ―によって作詩・作曲された歌のこと。
ミンネゼンガーのような吟遊詩人は後にマイスタージンガー(職匠歌人)へと繋がっていく。

小田ちなみに、A. ヴェーベルン(作曲家/1883-1945)とかそれ以降の作曲家って、僕はリートだと思ってましたけども、違うって見方もあるんですよね。

石崎そうなんだよね。無調や十二音階になったらそれは「果たしてリートか?」って話しだよね。

小田それに関しては、詩の伝統的なスタイルと、(表現は難しいですけど、)それに付する音楽も伝統的なスタイルで書かれたものが合致して初めてリートになる、という考え方なんですかね。
だから、調性が機能していて、詩の内容に則した音楽が付されているとか、何かしらの条件が整ったものをリートだと狭義の意味で定義した場合に、それに外れるものがたまたまヴェーベルンたちだった、という意見もあるかもしれないということなんですね。

石崎そうすると、少し強引かもしれないけれども、その人その人の解釈が成り立つ、とも言えるよね。そうした場合に、もう少しフリーな形でリートを捉えられると、それこそレーヴェやコルンゴルトがおさまるはずなんじゃないか、と。(笑) 例えば、H. プフィッツナー(1869-1949)は個人的には同時代の作曲家の作品と比較したときに少し渋いというイメージを受けて、同時代に活躍したR. シュトラウスの影に隠れてしまっていて、でもそれを現代を生きる私たちから見たときに、同じ1つの時系列で語っていってもよいのではないか、とも感じる。それはもしかすると日本人ならではの感覚なのかもしれないけれども。個人的には、その人その人の定義があってもいいのでは、と思っています。