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2024年9月8日 公開講座 アンケートへのコメント
改めまして、東京学芸大学公開講座「歌曲コンサートの今」にご参加くださり、誠にありがとうございました。
その際にご協力いただきましたアンケートにて、質問をお寄せいただきましたため、10の質問について、回答をします。
なお、次回開催は 2025年8月頃 を予定しております。詳細は4月をお待ちください。
質問1
演奏会を聴き、詩の韻律は大切だと感じました。しかしこれを学べる機会はあまりありません。先生方はどのように勉強されているのですか?
石崎:
ドイツ詩の韻律に関する書籍は、主に『ドイツ詩を読む人のために』(1982, 郁文堂)、『ドイツ詩必携』(2001, 鳥影社)の2冊が挙げられます。共に山口四郎先生の著書ですが、『ドイツ詩必携』に関しては、ご本人も後記で述べられているように、『ドイツ詩を読む人のために』の改訂版という扱いになっているようです。これらを参考に、韻律を確認しながら詩の朗読を行っています(この時、音にはまだ乗せずに詩だけで表現をすることを試みます)。あくまでも、感じたことを表現するための一つの方法論(材料)として韻律を捉えています。
森田:
現在は韻律のルールと詩人の技やこだわりとの間に何かがあるのかを考えたり、それとは反対に規則などを考えることなく音の世界そのものを感じるようにしています。 どのように学んだのかについては、30年以上前、私が大学生だったころはまだイタリアの韻律を本格的に学べる状況にありませんでした。大学時代の先生の助言もあり、それが学べるボローニャ大学への留学を選択し、勉強しました。そこで「オペラや歌曲をやりたいなら、まずはペトラルカだね」とあっさりと凄い(当時の私にとっては非常に難しい)、けれども貴重で本質的なアドバイスをいただいた記憶が強烈に残っています。ですから、現在の私の活動が「イタリア語・文化」の先生のように見られることもありますが、この探求はより良い歌のためのベースになるものです。楽しいですよ!
小田:
歌い手はもちろんのこと、伴奏ピアニストにとっても、詩の理解、特に韻律の理解はとても重要だと考えています。
僕は、大きく3つの勉強方法をしているかもしれません。
1つ目は、(各言語についての最低限の知識がある前提にはなりますが)イタリア詩やドイツ詩の、韻律のルール等について、本から基本的な考え方を学ぶことです。イタリア詩とドイツ詩について、以下に参考本を1冊ずつ載せておきたいと思います。
『イタリアの詩歌』(2020, 三修社)
※天野恵先生、鈴木信吾先生、そして森田学先生が著者の御本です。
『ドイツ詩を読む人のために』(1982, 郁文堂)
※学生の時、ドイツ詩の韻律を学ぶ際に紹介いただいて以来、何かあればこの本に立ち返っています。
2つ目に、詩は、もともと音(声)に出される前提であったということから、詩の朗読をたくさん聴くようにしています。特に、イタリア詩であればイタリア人による朗読を、ドイツ詩であればドイツ人による朗読をたくさん聴いていただきたいと思います。近年ではYoutubeでも朗読が聴けるようになりました。
3つ目は、自分でも詩を何回も読んでみる、ということです。読むことを通して、詩のリズムが体感できると思いますし、意味まで感じられると、詩人による仕掛けにも気づけるようになるかもしれません。
イタリア詩とドイツ詩とで、その響きやフレーズ感、リズム感を比べたりするのも面白いですよ。そうして「感じたこと」をもって、いざ歌曲作品を歌ってみると、「なるほどー!!」と思えることがあるかもしれません。
質問2
トスティ作曲の歌曲集《夕べ》をイタリア語作品の最後に置いた理由があれば教えてください。
森田:
《夕べ》を選んだ理由としては、組曲を紹介したかったこと、トスティ晩年の世界観(余分なものを削ぎ落とし非常にシンプルな音楽でありながら、人間のもっとも深い部分とつながった心の状態の表現)を共有したかったことが挙げられます。 大切に育んできたものが本当の自分に寄り添ってくれることはなかった、で終わるのではなく、(歌詞や音楽にはないけれど)その先にあるなにかが聞き手のみなさんに見え隠れするような演奏になるよう努めました。
質問3
私も演奏会を開く側になりたいと思っています。演奏会のコンセプトの決め方、演奏会までの過程について教えてください。
石崎:
毎回、演奏会のコンセプトは3人で決めています。実は今回までにこの3人で演奏する機会は2回ありました。1回目のテーマは「ロマンを求める二つの旅」、2回目は「夜が織りなす一つの物語」と設定しましたので、今回の3回目ではそれらとは被らないように「様々な愛(大切なもの)のかたち」と決めました。お互いの曲も鑑みながら、テーマに沿った曲を選び、またプログラムが決まった後での伴奏合わせでも、曲を追加したり、変更したりと常により良いものになるよう試行錯誤しながら選曲しました。
森田:
いろいろなやり方があると思いますが、「やりたい曲を入れる」「得意な曲を入れる」「集客を考えて選ぶ」のもあるかもしれませんね。コンセプトを決めてから選曲、選曲をしながらテーマが決まる、プログラムを見ながらテーマ(ストーリー)を考えることも。今回の演奏会に関しては「様々な愛(大切なもの)のかたち」からイタリアとドイツの歌がパラレルな世界を描き出すようにイメージして選曲しました。
質問4
これまで、たくさんの作品に取り組まれていると思います。この詩は分からないな、と思った作品はありますか?
石崎:
「わからないな」と思う詩はまだまだ沢山あります。それ故ということもありますが、自分の中で消化しきれない詩は演奏会にのせないようにしています。例えば、最近学生が取り組んでいたドイツ歌曲で、ハンス・アイスラー(1898-1962)作曲の「希望に寄せて An die Hoffnung」(詩:ヘルダーリン 1779-1843)という曲がありましたが、私にとってもまだ消化しきれていない詩ですので、一緒に勉強をしています。また何気に、今回取り上げたベートーヴェン作曲の「君を愛す Ich liebe dich」も表現を確立するのに時間を要した曲でした。
森田:
今でも「わからないな」と思う詩はありますよ。わかったつもりになっていたと気づくこともあります。さらには、自分で自分がわかっていないことを詠った詩というものあるので面白いですね。トスティとダンヌンツィオの《アマランタの4つの歌》とかも難しいです。
小田:
質問の趣旨から外れてしまうかもしれないのですが、例えば、今回の演奏会で森田さんと一緒に演奏したトスティとダンヌンツィオによる《夕べ》ですが、この1曲目は、ピアノソロの作品になっています。あの1曲目がなぜソロとして書かれたのか、なぜあの音楽が詩の言葉の前に必要だったのか、なかなかピントが合わずにいました。それが、森田さんとのおそらく最後から2番目の合わせの時に、ふと納得いく解釈が生まれ、今回はこれでいこう!と、そこから解釈と弾き方をまるっと変えたということがありました。
《夕べ》の第1曲目のピアノソロでは、僕にとっては、けだるさのような空気の質感や、活発ではない時間の流れ(まさに夕べ)のなかに主人公が置かれていて、そこに急に光や明るさが差し込んでくる、そんな映像かなと思っていました。悩んでいた時は、光や明るさが差し込むと同時に、主人公の心が〈何か〉によって痛むと思っていて、だからトスティはこの作品の第一音目をいきなりF(フォルテ)で、痛そうな音を書いたんじゃないかと思っていました。
でも、そうではなくて、トスティが表現したかったのは、ただ強い光が差し込み(フォルテ)、それが陰ったり(ピアノ)、また強くなったり(フォルティッシモ)、そうした自然の移ろいのことで、伴奏は主人公の心的なものを代弁するのではなく、あくまでも主人公が見ている景色を描写しているだけなんじゃないかと考えを変えてみました。そうすると、第2曲目で「ここにいて、お願い」と歌い始めたとき、「ここにいて」という主人公に対し、いや、しかし自然とは無常に移ろうものだ、という反語のような新しいニュアンスが付加されることに気づきました。それが見えたときに、やっぱり1曲目は必要だったと強く納得しましたし、トスティのすごさがまた1つ分かった気もしました。
でも、分かった気がしただけで、トスティが本当はなにをねらったのかは分かりません。もっと仕掛けがあるのかもしれませんし、逆に僕の考え過ぎで、そんなに深い意味は無いのかもしれません。その意味で、《夕べ》はまだまだ「分からない」という気持ちの方が強い作品です。
質問5
1曲1曲の完成度をあげるために、何か取り組まれていることはありますか?
石崎:
自分の理想に近づくために、「これはできた。でもまだこれができない。では本番までどこまで完成させられるのか」等と毎回新鮮な気持ちで曲に取り組んでいます。一番気をつけていることは、予定調和にならないようにすることでしょうか。
森田:
毎回、新たに出会ったかのように接することでしょうか。新たな発見をすると「今まで見逃してきてゴメンね、見つけたよ」という気持ちになります。
小田:
歌い手が、作品をより豊かに表現するための新しいアイデアが得られるような弾き方を、本番ギリギリまで模索することなのかなと思いました。歌い手の方の多くは、伴奏の細かなニュアンスを聴いてくださっており、「伴奏がそうもってきてくれるならばこう歌ってみようか」と即興的な反応で歌ってくださることがほとんどです。隠れたクレシェンドや、リズムの硬さ、ペダルの入れ方、ピアノの低音から高音までのバランスなど、ちょっとした工夫が歌い手の表現をより豊かにすることにつながったりすると思っています。
質問6
今回の演奏会で演奏された作品の中には、20代の頃にも演奏したことがある作品もあったと思います。当時と、いろいろ経験した今とで変わったことはありますか?音楽的な技術以外で変化を感じられたことがあれば知りたいです。
石崎:
思いっきりあります!確かに20代の時は技術的なことばかりに目が向いていたかもしれません。50代になった今、その頃には成しえなかったことができるようになったり、人生経験を踏まえて、同じ詩や曲だとしても表現の捉え方、感じ方が大幅に変わったというものが少なくありません。不思議な感覚でもあり、それがひそかな楽しみでもあります。
森田:
一番大きく変わったのは歌への意識でしょうか。30代まではとにかくいい声、豊かに響く声をいかに出すかを重要視していたかもしれません。今はいい声、豊かに響き渡る声は(演奏家として当然準備しておいて)いつでも出せるもの、「ここぞ」というところで使うもの。それよりも思考の糸(流れ)を途切れさせないようにしたり、歌い手が思い描いている世界を聞き手に見えるように空間を音声で満たしていくことに集中しているように思います。
質問7
先生方が作品を解釈される際、どんなものから想像力を膨らませているか、ぜひお聞きしたいです。
石崎:
詩や音に書かれていること、そして書かれていないことからイメージを膨らませています。それらを基に自分が解釈したものを、伴奏者が紡ぐ音色や解釈からインスピレーションを受けたものとを織り交ぜながら、一つの解釈(世界)を共に作っていきます。
森田:
まずは詩ですね。詩句の意味だけでなく、リズムや響き、言葉の配置や言葉と言葉の間や奥にある「何か」を感じ取ることができるように何度も音読します。もちろん、楽譜から読み取ること、ピアニストと演奏することで見えてくるものも助けになっています。詩人の書いた詩句を自分の言葉で言い換えてみる、絵に描いてみることもあります。
小田:
僕の場合はリラックスした時間が「これだ!」と思える音楽を見つけるのにとても大切だと感じています。例えば散歩をしたり、カフェで楽譜や詩を眺めたり、最近は美術館によく行くようになりました。その時に、頭の中で音を鳴らしたり、詩をぶつぶつと唱えてみたり…。
質問8
演奏しているその瞬間、先生方の頭の中には何が流れているのでしょうか。
石崎:
詩人と作曲家の思いを代弁して、それを伝承する吟遊詩人のような感覚でいます!と言ったら大げさかもしれませんが、実際に語って歌っている自分がいる(明らかに何らかの思考が働いている)一方、冷静な自分もいる(まるで自分を客観的に見つめているだけで、何の思考も働いていない)という感じでしょうか。言葉にすると難しいですね。。
森田:
一般に言われているように、歌の中での「(熱い)私」とそれを冷静に見ながら演奏している「(冷静な)私」が共存していて、絶妙なバランスで思考しています。(うまく説明できていますか?)
質問9
迫力のある声の出し方を知りたいです。
石崎:
語るように歌った時の声の瞬発力がそれを作ってくれるように思います。自戒の念を込めて、力任せに歌った時は全くその効果が得られません。
森田:
脱力と反発力でしょうか。アスリート(例えば槍投げとか)のすごい記録が出る時のフォームが美しいのと似ているかもしれません。
質問10
アンコールがすっごく良かったということが演奏会にはあると思うのですが、それはどうしてなのでしょうか?
石崎:
安堵感というものが一つあるかもしれません。プログラム全般を全身全霊で駆け抜けた後、アンコールの際にふっと緩む心地よい感覚は確実にあります。変に気張ったりせず、聴衆の皆さんとそれを共有できる喜びが自然と出てくるからなのかもしれません。あと一つ、アンコールでは初めての曲ではなく、慣れた曲を歌うからかもしれません!
森田:
演奏会で聴衆の皆さんとひとつの世界を共有してきたという信頼関係から生まれる安心も手伝ってくれるのでしょうね。あとは、演奏家の18番(おはこ)や聞きなじみのある小品を選ぶ、ということもあるかもしれません。
小田:
いやー、良い質問だなぁと思いました。たしかに、どうしてなのでしょうね。
演奏する側の目線としては、プログラムの本編に入れる曲と、アンコールとしてふさわしい曲とは、暗黙で住み分けがなされているように感じています。もちろん、プログラムにも入れられるし、アンコールとしても使える、という曲もあるのですが、アンコールとしてよく演奏される曲は、例えば親しみやすく、気軽に聴ける、短い作品が多い気がしますので、プログラムを全て聴き終えた満足感のあとに、気をゆるめてさらに演奏を聴けるというのが「アンコールがすっごく良かった!」につながるのかな?と想像しました。
